大判例

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福岡地方裁判所 昭和52年(ワ)13号 判決

原告

案浦久高

外三名

右四名訴訟代理人

林健一郎

津田聡夫

右訴訟復代理人

上田国広

被告

学校法人福岡大学

右代表者理事

瓦林潔

右訴訟代理人

鶴田哲朗

饗庭忠男

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一(当事者)

請求原因1の事実は、当事者間に争いがない。

二(事故の発生)

同3の事実のうち、九州労災病院転院以前の事実は、当事者間に争いがない。

三請求原因2の事実のうち、翠が昭和五〇年七月九日午前一一時ころ松隈らとともに福大病院を訪れ、同病院精神神経科の牛島医師の診察を受け、うつ病と診断されたこと、同4(一)のうち、同女について同医師がうつ病であると診断し、自殺念慮を有していると判断したこと、同4(二)(1)の事実のうち、同日同医師が同女の診察に当り、問診を行つたこと、その中で同女に対し自殺することを考えることがあるか否かを尋ねたこと、同女に対し入院を勧めたこと、松隈と原告高子が入院を強く希望したこと、翠が当初入院を躊躇していたこと、同4(二)(2)の事実のうち、その後同女が別室で点滴を受けたこと、同4(二)(3)の事実のうち、同医師が松隈に対して付添いのことについて述べた際、松隈が原告久高が開業医であり子供達も学校に行つている旨答えたこと、同日午後三時ころ、七階病棟看護婦神田小夜子の案内で翠が七一一号室に入つたこと、同4(二)(4)の事実のうち午後五時過ぎ同医師が原告久高に対し付添いのことについて話をしたことは、当事者間に争いがない。

四右争いのない事実に、〈証拠〉を総合すると、次の事実が認められる。

1  (福大病院受診前の状況)

(一)  翠は、医師であつたが、夫である原告久高が経営する案浦医院においては、同原告が往診等で留守をした時の代診程度しか医師としての活動はしておらず、また家事も家政婦にまかせ、主として、同医院における保険関係の診療報酬請求手続等の用務を担当しまた案浦家の家計を担当していた。昭和四九年末ころ、虹彩炎に罹患し眼科医でステロイド療法等の治療を受けていたが、昭和五〇年末ころから、不眠とともに全身倦怠感、食欲不振を訴えるようになり、そのうち、知人から贈られた物について「これは貰うわけにいかない。返してきてくれ。」と言つたり、診療報酬の分割請求をしていたことで罰を受けるとか、監視されているとか言うようになり、また親類の者から預つて隠していた短刀を遠方までタクシーで返しに行く等の異常な言動が見られるようになつた。なお、診療報酬の請求手続に関する罪業感ないし妄想傾向を示すようになつたきつかけは、同年五月末ころ、原告久高が不在の時に電話で「保険請求に不正があるが、そういうことはしないように。」と言われたことがあつたらしく、これが誰からどのような趣旨で言われたものであつたかは、結局明らかでない。

(二)  原告久高は、そのころ、翠の実弟であり、福岡市役所の課長職にあつた松隈に、同女が食欲もなく不眠を訴え、様子がおかしいから見にきてくれるように連絡をした。同人が同年六月二三日勤め先を休んで案浦家を訪ねてみると、同女は、居間の隅に座り込んで頭を下げ非常に塞ぎ込んだ様子をしており、ものを言つても応答しない状態であつた。そこで、同人は、翠らが以前にも心配事等で助言を受けたことのある石蔵医院を訪れ、右の概要を話して与薬を受けてきた。それでも、症状がよくならなかつたため、原告久高は、同月二六日、同女を伴つて同医院で受診させ、与薬を受けた。その後も、薬を飲むと眠れるが、飲まないと眠れない状態で食欲も進まなかつた。同月二八日、再び同原告に伴われて同医院を受診した翠は、「どうしていいかわからぬ。手が少しピリピリする。頭が痛い。」などと訴え、うつ状態にあつた。七月三日、同原告に伴われて同医院を受診したが、その際も倦怠感、不眠、憂うつ感を訴え、「追いつめられたようにある。」と医師に述べた。同月七日、同様にして同医院で受診したが、状態は変つていなかつた。なお、同医院における診断は、心因反応であつた。そのころ、同女の友人である医師原口美智子及び久富某女が案浦家に翠を見舞つたが、原口らの予期していた以上に翠のうつ状態が強かつたため、原口らは、原告久高に対し、福大病院精神神経科に入院することを勧めた。

(三)  原告久高は、同月八日、松隈に対し、電話で、福大病院で診察を受け入院させたいので連れて行つてくれるよう依頼した。同人は、翌九日、案浦家に行くと、翠がやはり居間に座り前屈に屈み込んだ状態で応答もよくしなかつた。同人が話し掛けると、「どうもみんなから陥れられているようだ。」などと言つた。

原告久高は、松隈に対して、翠の症状の詳細や石蔵医院での診断内容、診療経過等を伝えなかつたし、松隈もこれらを同原告に問うことをしなかつた。

(四)  原告高子の経験したところによつても、翠には、このころ、自宅において家族とは離れた部屋のソファーの上に顔をしかめて寝ていたり、同原告の友人から贈られた茶碗を貰ういわれはないから返してくるようにと言つたり、患者が手みやげに持参したケーキを返すと言つて追いかけて行つたり、閉め切つた座敷に寝て同原告と話している最中に突然同原告に対し外に出てはいけないと理由もなく組み掛つたりしたことがあつた。

2(福大病院初診時の状況)

(一)  福大病院精神神経科の牛島医師は、同日、午前一〇時ころ、知人である前記原口美智子から、電話で翠の診察を依頼され、その際入院の希望のあることを伝えられた。

翠は、午前一一時ころ、松隈及び原告高子に伴われて同科外来で受診した。同医師の診察は、松隈及び原告高子同席のうえで行われたが、先ず、松隈から原告久高作成の病状経過の概略を記した添書を手渡され、翠の症状について食欲がなく、不眠であること、保険の診療報酬請求に関して脳みがあつて色々と妄想が起り人から陥れられるような気がするとか狙われているというようなことを口走るなど簡単な説明を受けた。右の添書には、昭和四九年末虹彩炎に罹患し昭和五〇年五月ころまでステロイド療法を受けたこと、その後全身倦怠を訴えたこと、同年五月三一日に「電話にてショックを受け、その後ノイローゼ気味」であること、石蔵医院で受診して投薬を受けたこと、「眼の方も心配」なので「よろしく」願うこと、食欲不振につき自宅で点滴したこと、不眠については最近一週間程はとれているようであることが簡単に記載してあつただけで、前記のような同女の異常な言動については、「電話にて自分の家をさぐつているとか、貴方もわたしも『たいほ』されるとか口ばしるようになりました。」との記載があるにすぎず、他のことには触れていなかつた。

牛島医師は、続いて同女を問診し、同席の松隈や原告高子にも発問した。その結果、同医師が現病歴として把握しえたのは、前記添書に記載のある事項のほかは、抑うつ傾向が出没し始めたのがステロイド療法を受けていたころからであること、昭和五〇年五月ころからは抑うつ感があつたこと、同月三一日のショックを受けた電話というのが、医師会の隣組長からの「六月から保険審査を厳重にするから不正をしないように。」という達しがあつたということを指すものであること(尤も、この点は、翠の妄想傾向の内容自体を形成する一部であり、同女の訴えによつて判断されたものと考えられる。)、その後、「自分の家は、保険医の資格を取り消される。不正を探りに来ている。」と訴えるようになり、訴えが余り執拗なので、原告久高が確かめたところ右の電話の内容が一般的達しにすぎなかつたことが分り同女の異常な反応に気付いたこと程度であり、松隈から前記のような同人が経験した同女の症状を具体的に述べることもなかつたし、また原告高子からも具体的な話をすることがなかつた。同医師は、松隈及び原告高子の応答振りから同人らが詳細なことを知らないのであろうと判断した。

なお、右問診の際、同医師は、翠に対し、生活歴、病前性格、家族歴についても尋ねたが、同女は、これに対しても、円滑にかつほぼ正確に応答した。

(二)  右診察の結果を総合した同医師の所見は次のとおりであつた。即ち、同女は、不眠、心気傾向、不安、抑うつ感が著しく、罪業感、猜疑心が強い状態にあり、抑うつ的顔貌となつて社会的引籠りが起つており、身体症状として、けだるさ、便秘、食欲不振もあり、抑うつ気分と罪悪感に起因する妄想傾向を生じており、前記診療報酬の不正請求に対するこだわりが強いものと判断されたが、一方、思考・概念の崩れ、身体の緊張、奇妙な行動・姿勢、誇大感情・万能感、周囲の者への敵意、幻覚、興奮はなく、見当識は正常であり、面接者を避ける様子が僅かにあつたが、対話をしているうちにかなり気持もなごんで来た様子もあり、面接に対しては協力的で、総じて人格水準は正常に保たれていると判断された。

同医師は、右のような所見を総合して、同女を内因性うつ病と診断した。同女の年齢が当時五一歳であつたこと、同女には明白なうつ病の既応症がなかつたことから、初老期うつ病とも考える可能性はあつたが、そもそも内因性うつ病と初老期うつ病とは明確に区別されうる内容のものではなく、最近では、初老期うつ病とは内因性うつ病の一類型とする考えもあり、人生でやるべきことは大体終つた、日に喩えれば自分の人生が西の方に沈んでゆくというような翳りが病像の中に見られる場合に付けられる診断名であるが、同女の場合、未だ自分がいなければ案浦家は安泰でないというような気迫のようなものが感ぜられたため、同医師は、初老期うつ病との診断をしなかつた。

(三)  さらに、同医師は、右問診の際、同女の自殺企図の可能性の有無を確認するため、同女に対し、「こんな状態に追い込まれたら、死んだほうがましだろうな。」と言つたところ、同女が「死にたいけれども、子供達が小さいから、とてもそんな気にはなれません。」と即座に答えたので、同女の他の所見とも総合して、自殺念慮はあるが深刻なものではなく、自殺企図のおそれはないと判断し、これ以上その質問を続ける必要はないと判断した。

(四)  同医師は、前記診察を終えて、同女の治療のためには入院させるのが適当であろうと判断した。一般に入院が必要な患者というのは、自殺企図のおそれがあるなどの症状のみえる場合であるが、同女の入院はそのような理由によるのではなく、自宅において診療報酬請求の事務等を担当していることに関して妄想傾向を示していたこともあり、周囲に対する気遣いが強いようにみられたので、うつ病治療の第一段階として必要な充分の休息が自宅においてはとれないであろうと考えたためであつた。また、同女には治療理解もあるものと思われたし、急性の激しい精神症状を呈していたわけでもないうえ、同女の社会的地位や世間体を気にしているという同女の病状からみても、七階病棟の特別室が治療上好ましいであろうと判断したからであつた。

そこで、同医師は、同女らに対して七階病棟への入院を勧めたが、同女が世間体を気にして躊躇している様子を示したものの、原告高子から「あなたはもう入院しないと困る。」と厳しい口調で言われ、松隈からも入院を勧められていたので、翠本人の充分な納得を得ることが治療上重要であると考え、その趣旨で同女らに対し、診療室の外で話し合うように話し、翠ら三名を正午ころ一旦退室させた。なお、その際、同医師は、松隈に対して、七階病棟の特別室のベッド差額について説明をするとともに、家族の付添いができるかどうかを尋ねたが、これに対して同人から、原告久高が開業医であり、子供達も学校に行つているので家族の付添いは困難であろうと述べられたので、家族の付添いができないようであれば病院から職業的な付添婦を付けることもできるが検討してもらいたい旨要請した。これに対しては、同人の一存では決められないので、原告久高と相談する旨の返答であつた。同人は、大学病院では一般に完全看護が行われていると考えていたので、付添人の必要が何故あるのか不思議に思つたが、問い質すことはしなかつた。

同人は、原告久高に電話をして、入院するについて付添婦を付けないかとの話があつたことを伝えたが、同原告は、その必要はないのではなかろうかという態度であつた。

翠らは、二〇分程後、再び診察室に入つたが、先ず松隈から本人も入院を承知したとの話があつたので、同医師が同女に対して入院の意思を確認したところ、同女は、「私が病気なのですから。子供達に迷惑かけても仕方ございませんし、よろしくお願い致します。」と述べた。

(五)  ところで、同医師は、七階病棟との連絡をとつたが、当時同病棟の都合で入室は午後三時ころまで待つてほしいということだつたので、入院受入れの準備ができるまでの間、同女に対し、アナフラニールをブドウ糖液に入れて点滴を行つた。

この間、同医師は、同女の主治医を奥村医師に依頼した。両医師協議の結果、七月九日当日は牛島医師が入院後の指示、治療を行い、翌一〇日からは奥村医師が主治医として治療を担当することとなつた。

一方、松隈は、看護婦詰所で入院に必要な日用品の指示を受けてきて、原告高子が準備のため自宅へ戻つた。約二時間の点滴が終ると、翠の表情は大分明るくなつたように松隈には感ぜられた。

(六)  翠は、午後三時ころ、七階病棟の看護婦神田小夜子の案内で七一一号室に入つた。松隈は、入院の事務的手続を行つた。

牛島医師は、看護婦に対し、翠について、休養の必要な時期なので余り病気については触れずに静かに休養させ、優しく受容的な態度で接するようにとの指示をし、病室で、同女に対し、「入院なさつた感じはどうですか。」などと話した。同女は、「きれいな病院ですね。」と応えて、むしろ安心したような様子に見受られた。

その後、看護婦神田典子(以下「神田看護婦」という。)が入院のオリエンテーションを行い、病棟及び病室内の説明、日課、面会時間、面会人は必ず看護婦詰所に寄つて面会する旨伝えること、入院料金は月二回、一五日と三〇日に締め切つて支払を求めることなどを説明し、続いて簡単な病歴聴取と身体計測を行つた。この間、翠は、周囲の物音に敏感に反応し、幾分落着きがないように見受られたが、異常という程の点は何らみられなかつた。入院手続から戻つてきていた松隈から「牛島医師から付添いを付けるように言われたが、どうしましようか。」と尋ねられた同看護婦は、同医師に聞いておく旨答えたが、その後同医師にその話をすると、原告久高に話すからということであつた。間もなく、松隈は、翠から仕事があるのだから早く帰れと言われたこともあつて、同病院を退出した。なお、七一一号室には備付けの電話があつた。

(七)  一方、自宅に戻つた原告高子は、指示された日用品を準備したが、寝巻については、新しいものがよいと思い、家政婦に買いに行かせた。同原告は、家政婦が買つてきた浴衣を含めて、午後四時ころ、診療業務を終えた原告久高らとともに、福大病院に持参した。同原告らは、これに先立つて、松隈から七一一号に入室していることを知らされていたので、同室に直行し、看護婦詰所には立ち寄らなかつた。

(八)  牛島医師は、午後五時ころ、原告久高が来院したとの知らせを受けて、七一一号室に赴き、そこで翠らのいる前で、同原告に対し、うつ病であるが一週間もすればもつと気持が楽になるだろうなど話し、付添いを付けられるかどうか尋ねたところ、同女から即座に自分のことは自分でできるからと否定された。

そこで、同医師は、付添いのこともあり、他にも話すべきことがあるだろうと考え、同原告を別室に伴い、主治医が奥村医師となつたことを伝え、翠の病状について話した。同原告は、案浦医院で診療報酬の不正請求をしたので狙われているという同女の訴えにこだわり、実際は不正をしていないのに「あれがああいうことを言うものですから。何か本当に狂つてしまつております。」などと釈明に努めるばかりで、病状についての説明を真剣に聞こうとしないような態度であつた。それで、同医師は、自己の留学体験等も話して、うつ病というのが最近はポピュラーな病気になつてきていることを説明し、さらに、付添いを付けるよう要請し、その主旨は了解されたものと考えた。また、さらに話したいことはないか尋ねたが、特にないということで、結局、原告高子や同久高あるいは松隈が経験していた翠の異常な言動は、具体的には医師に知らされないまま、同女の入院に至ることとなつた。同医師は、右に現われた以上に、同女の具体的言動等精神症状にかかわる事柄がなかつたかどうかを追及することはしなかつたが、それは、患者やその家族との信頼関係を重視する精神科治療の観点から、特に診療開始から間もない段階では、これ以上根掘り葉掘り質問することが不信感や警戒心を不必要に惹起するおそれがあつて好ましくないし、これらの事柄に関する情報は、治療関係が進行してゆく中で次第に得られるのが通常であつて、またそのような情報の方が確度が高いという経験に基づく判断によるものであつた。

3(治療・看護の方針と体制及びうつ病の治療理念の一般的趨勢等)

(一)  牛島医師は、前記のような初診時の状況から、翠の治療としては、入院によつて家庭的、社会的な責任や雑務から解放し、保護的環境に置いて休養をとらせるとともに、薬物療法を実施すれば、間もなく軽快するものと考え、また、看護についても、自殺念慮はあるが深刻なものではなく自殺企図のおそれはないものと考えたので、看護婦に対しては、特に自然防止のための具体的注意などすることは患者との信頼関係、意思の疎通を阻害するおそれもあり治療上逆効果であると考えて、これを差し控えた。

(二)  七月一〇日から翠の主治医となつた奥村医師も、牛島医師と同様の診断をし、抗うつ剤と神経遮断剤で精神症状をとることを治療方針とした。

(三)  看護計画については、(1)生活行動の観察を細くし、言動、食事量を観察し、何が問題になつているかをつかみ、早く信頼関係が持てるように接すること、(2)与薬の確認、(3)清潔にさせることを目標とするものと定められ、そのほか精神症状を話題にしないこと、治療は医師に任せること、「病気をよくしましようね。」などと言わないこととされ、精神状態に異常のみられた場合には報告するものとされた。しかし、看護上の要注意患者とはしなかつた。

なお、奥村医師は、同月一一日、原告久高との面接をこの時間内にしたいという趣旨をも含めて、翠の家族の面会時間を午後三時から同五時までの間とする旨定めた(一般には七階病棟の面会時間は、午後三時から午後七時までの間とされていた。)。

(四)  ところで、うつ病の治療については次のような考え方が一般化している。

先ず、うつ病の精神症状は、少なくとも分裂症状にみられるような異質的なものは少なく、正常心理、特に精神病質的性格特質から共感のえられるものであり、程度の差こそあれ正常人にも存在するものであつて、しかも、分裂病が急性期症状の消退したあとに多少にかかわらず欠陥状態を残し、時には人格の荒廃へと向うのと対照的に、ほぼ正常な精神状態に回復が可能であるという特徴がある。

うつ病治療の目的は、自殺その他の破壊的行為を予防しつつ、患者の精神症状からくる苦痛を取り去り、症状経過を短縮し、終局的には社会復帰を目指すものであるが、一九五〇年代に三環系抗うつ剤が開発され、臨床上でも使用されるようになり、その後各種の向精神剤が実用化されるようになつて、我が国でも昭和四〇年代以降はうつ病治療の中心は向精神剤による薬物療法とされ、これに併行して各種の精神療法、時に特別な身体療法が行われ、なお一部では作業療法を含む生活療法が実践されるようになつた。また、うつ病における精神療法が治療法と患者との信頼関係を基礎として受容的、支持的に行われるべきであるという理念も一般化し、向精神剤のために症状の改善が可能となつたことと相俟つて、その治療は、外来で、あるいは入院の場合も開放病棟において行われることが少なくなつた(うつ病の概念が近時拡大して来ていることを考慮しても、趨勢として、右のようにいうことはできるものと認められる。)。

(五)  また、うつ病と自殺企図の関係、うつ病患者における自殺への結実因子、その予徴については、次のように考えられている。

うつ病患者は、多かれ少かれ自殺への志向性を有するものであり、総体的に正常人に比して自殺を企図する頻度も高い。しかし、現実の臨床においては、熟練した精神科医であつても、自殺企図を予知することが困難な場合が少なくない。自殺への結実因子として一般に考えられるものは、耐え難い不眠、不安や焦燥感の強い著明な抑うつ状態、極端な疲労、激しく救いのない心気症や疾病、恐怖、強迫症状等激しい恐怖状態、離人体験や非難めいた社会的・家族的圧迫等が指摘されている。また、現実に起つた自殺企図を見ると、その直前の状況として、これらの症状を訴えるとか、自殺念慮の直接又は間接の言語表現、縊首の準備を示したりする直接的な行動表現をすることも多く、あるいは、問題のある家族が面会して本人に対し重大な不安を与えるような話をした場合、器物を破壊したり、壁に頭を打ちつけたり、自傷的行為に出たりした場合、既往に自殺企図歴がある場合等において、自殺企図の多いことが知られている。従つて、また、自殺企図は、これらの事情が現われることをもつてその予徴と考えることができる。

(六)  福大病院精神神経科においては、昭和四八年開設以来、西園教授を中心として、社会復帰に重点を置いた先進的治療を目標に掲げ、いわゆる閉鎖病棟を持たず、またうつ病患者の多くを外来で治療してきた。

同病院には、当時、精神神経科の患者を入院させる病棟として五階北病棟の同科専門の病棟のほか、七階の各科混合の病棟等の一般病棟があり、五階北病棟は四六床の病床を有し、うち二床は保護室であり他は開放病棟となつていて、二つの個室のほかは数人の相部屋であり、七階病棟は全て個室のいわゆる特別室となつていた。翠の初診時は、五階北病棟に空床はなかつた。

七階病棟は、東・西・南各病棟に分れ、いずれも全床個室であるが、病床数合計四〇床で、当時約三〇床に入床しており、東・南両病棟と西病棟とは入床数がほぼ同じであつた。同病棟所属の看護婦は一七名(うち正看護婦一六名、准看護婦一名)であり、他に看護助手二名、クラーク一名が配置されていた。看護婦の勤務は、午前八時から午後四時二〇分まで(日勤)、午後四時から翌日午前〇時二〇分まで(準夜勤)、翌日午前〇時から同八時二〇分まで(深夜勤)に分れ、基本的に三交代制をとり、このほかに午前七時三〇分から午後三時五〇分までの早出、午前八時から同一一時二〇分までの午前半日、午後一時から同四時二〇分までの午後半日の各勤務形態があつた。担当別人員数は、準夜勤、深夜勤は各二名で、また、日勤のうち二名が東・南各病棟担当、二名が西病棟担当、一名が特に担当なくそれぞれを手伝い、早出一名が注射処置を担当し、午前・午後半日が各一名で、午前半日が与薬を担当し、そのほか看護婦長とチームリーダーが各一名いた(七月一五日、同月一六日はこの標準的体制であつた。)。

同病棟では、起床時刻は午前六時、就寝時刻は午後九時とされ、看護婦らの病室を訪れる頻度をみると、日常的業務としても、血圧測定が通常一回(翠の場合もそうであつた。)、検温が一日二回、与薬が各食後で一日三回、清拭が一日一回、食事の配膳と片付け、給湯があり、その他点滴については注射時に医師を介助するほか、二時間近くかかる間様子を見に行つたり終了時の処置をしていた。就寝中は、準夜勤ないし深夜勤の者により、原則として一時間毎に巡回が行われていた。

また精神科の患者は、常時入床していたが、七月一五日及び同月一六日は翠を含めて八名入床していた。一方、当時看護婦中で過去に精神科勤務の経験のある者は神田看護婦を含め三名であつた。

4(入院後の翠の状況)

(一)  七月九日

午後八時ころ、内服薬の眼圧への副作用につき不安を訴え落着かない様子を示したが、午後九時ころ、看護婦から眼圧には関係ないようだと説明されて薬を渡されると素直に服薬し、「これで今晩は眠れるでしようか。」と言いながら臥床した。

(二)  七月一〇日

午前一時ころ、不眠を訴えた。当直医の指示でベゲタミン一錠の追加投与を受けたが、午前二時ころも不眠であつた。午前六時ころは睡眠中であつた。

午前七時三〇分より少し前ころ、案浦家に電話をし、原告久高に対し割合よく眠れたと言つた。

午前八時三〇分ころ、奥村医師が同女の入院日誌、看護日誌に目を通す等したうえで、同女を訪室し、血圧測定、問診をした。対話は支障なく行われた。「昨夜は眠れなかつた。昨日の点滴のときから頭がもやもやしている。六月中旬に電話があつてから、保険のことで警察が家の回りにいて調査している。主人はそんなことはないと言うけれど、事実なんです。私は病気ではないと思うが、主人や娘がおかしいことをまた言うと言つている。私は今すぐにでも帰りたい。一週間で帰してほしい。娘は、高校三年生で、進学は東京の方を希望しているが、私が罪深いことをしているので、娘一人が残されそうで。」などと訴えた。

同医師の症状評価は、軽い思考制止、思考緩慢、妄想気分、困惑、中等度の妄想的心気態度、妄想知覚、罪業妄想、被害妄想、抑うつ、不安・焦燥、緊張、欲動低下、好褥・無為、強い貧困妄想、絶望感、罪業感、病識欠如があり、昏迷と拒食があるかもしれないが、意識障害、見当識障害、注意力・記憶の異常、思考の途絶、奔逸、出まかせ等の思考障害、強迫観念、恐怖症等の制縛状態、体系化した妄想や関係妄想等の妄想、錯覚、幻覚、自我障害、緘黙、不穏、反撥・拒否等の精神運動性障害、接触性低下、攻撃傾向等の社会性障害はいずれもないというものであつた。総じて、人格水準はよく保たれており、また衰弱している様子もなかつた。同医師は、思つたより抑うつ状態になく、妄想状態の方が前景に出ていると考えた。

自殺念慮の点は、同女が色々訴えたのに対して、同医師が「そのようにつらければ死にたいところでございましようね。」と問うと、「娘が未だ高校三年であるし、他の子供達も小さいので死ぬに死ねません。」と答えたことから、同医師は、前記症状評価とも総合して、深刻な自殺念慮はないものと判断した。

なお、その際、同医師は、原告久高に会いたいので同病室に置いてある電話ででも連絡をとつておいてもらいたい旨述べ、また、付添いの点を問うたが、これに対しては付き添つてもらわなくてもよい旨答えた。

午前九時ころ、菊竹婦長が訪室すると、「夕べ二万円だつたお金が三万円に殖えている。自分はずつとベッドにいて眠つてもいない。トロトロした時もあつたが、その時は看護婦さんが薬を持つてきただけで、他は入つて来ていない。それなのに一万円と千円が幾らか殖えている。こんな不思議なことが家でも何回もあつた。いやだから一万円預つてくれ。」と眼鏡を出して確かめてから一万円札を渡した。同病院では看護婦が現金を預かることはしない建前だつたが、この場合は預かることとした。

この話をきいた奥村医師は、うつ病患者の場合、休養がとれて気持がほぐれてくると、抑うつ感情から第二次的に錯覚や思違いが出てきがちなので、そのようなものであろうと考えた。なお、前記の症状評価は、右事実をも考慮してなされたものであつた。

午後四時三〇分ころ、奥村医師が再度診察に七一一号室を訪れたが、身体症状に異常はなく、精神症状についても変化がなかつた。

午後五時前ころから、アナフラニールの点滴を始めたが、視力がおちると訴え、連絡を受けて病室にやつてきた当直医の坂口医師に対し、虹彩炎があるので目が霞むとか眼圧が上るとか点滴の副作用の不安を訴えた。同医師は、翌日奥村医師に相談するように指示して、点滴を続行した。

深夜の睡眠はとれていた。

(三)  七月一一日

起床後、「昨夜はよく眠れたが、起き上つたとき眩暈がする。気分が悪い。」と訴え、奥村医師に対しても前記副作用の不安感を訴えたので、同女の点滴中止の希望が強かつたことから、同医師はこれを一時中止してみることにした。

午前中、脳波検査をし、眼科を院内受診したが、その結果、視力の低下は遠視と調節力の低下によるもので、虹彩炎は現在ないこと、甲状腺機能障害の疑いがあることが指摘された。

同医師は、同女の態度がじつと臥床して、テレビを見るでもなく、ラジオを聴くでもない、自閉的であると判断した。

(四)  七月一二日

午前一時ころ以降定期の巡回時睡眠中であつたが、午前六時ころ、神田看護婦が訪室し、ドアを開けたとたんに飛び起きて「何か変です。おかしいです。」と訴えた。「どんな風におかしいんですか。」という同看護婦の問には、「何かボーッとしています。気分が悪いんです。」と答え、落ち着かない様子を示した。尤も、同看護婦は、直ちに医師に報告すべき程の異常な感じは持たなかつた。

午前一〇時ころ、訪室した菊竹婦長に対して、臥床したまま、「また変なんです。夜のうちに石鹸が一つ多くなりました。気持が悪い。」と訴え、すつぽり毛布を被つてしまつた。

活気がなく口数も少なかつた。

午後、奥村医師の診察を受けた時、「何もかも駄目になつてしまいそう。」と憂うつ感を訴え、「誰かが監視している。私には原因があるから直らない。」などと言つた。しかし、これらは、通常のうつ病患者の症状であり、状態の変化とはみられなかつた。なお、同医師は、家族が来たら、看護婦詰所にいるから立ち寄るようにと伝えたうえ、右詰所で待つたが、結局この日も会うことはできなかつた。

(五)  七月一三日

午前九時一〇分ころ、与薬のため訪室した看護婦に対し、「さつき薬飲みました。確かに三錠飲みましたよ。」と言つた。そこで、看護婦が与薬の有無の確認をして、再び訪室し、「飲んでいないようですよ。」と告げたのに対し、「ああそうですか。感違いしていたんでしよう。」と言つて、素直に服薬した。

「体がきつい。」と訴え、臥床した状態が続いていた。

午後三時半ころ、原告久高が見舞い、暫く在室したが、医師や看護婦には出会わなかつた。

(六)  七月一四日

午前一〇時ころ、訪室した看護婦に「きつくてきつくてフラフラしてるんです。」と訴え、毛布を頭から被つた。午後二時ころも、同様の状況であつた。

午前中、奥村医師の診察を受けたが、臥床しており、「気力が湧かない。身体がどうかある。病室に電気が流れているようだ。電波が流れているようである。耳に響く。」などの訴えがあつた。

同医師は、これまで、食欲不振が続き、食事量も少なく、同女が体重五キログラムも減つたというので、症状の経過等をも勘案してアナフラニールや栄養剤の点滴を再開することとし、その他投薬の一部変更をした。

午後、西園教授の回診があり、奥村、牛島両医師も同席して問診が行われた。その中で、「憂うつですね。」との問に対して、「なんもかも駄目になるようです。」との答があつたが、奥村医師は、翠の様子からこれは絶望感の表現というより依頼心の表われであろうと判断した。また、「一人でおつて淋しいですか。」との問に対して、「淋しいのを通り越しています。」との答があつたが、これについても、同医師は、同じように判断した。

右診察の結果、同教授は、「接触性はよい。妄想傾向は抑うつ気分から生じた第二次的なものと判断される。」との意見を述べ、ステロイドとの関係について、これがきつかけにはなつていると考えられると述べた。これに対しては、牛島医師からステロイド投与以前から憂うつな状態はあつたようだと述べられた。さらに、奥村医師からの罪業妄想についてはどうかという質問に対しては、同教授は、「中年以降のうつ病に特徴的な不安が強く、罪業妄想は第二次的なものであろう。」と述べ、奥村医師に対して、五階北病棟への転棟を提案した。この場で聞いていた翠には、別段拒絶的表情は見られなかつた。

その後、村田助教授以下精神科医師らによる定期のカンファランスが開かれ、その結果、翠を当時満床であつた五階北病棟に空床ができ次第転棟させようと決定された。五階北病棟の次の女性患者の退院は翌一五日に予定されていた。

夕刻、原告久高、同高子らが病室を訪れた。翠が「帰りたい。」と言つたのに対して、同高子は、「そんなことは考えずに、治ることだけを考えるように。」と言つた。同原告らは、この時、回診の話も転棟の話も聞かなかつた。

午後六時三〇分ころ、奥村医師が転棟について説明すると、「おつしやるようにします。」との返事であり、また家族の付添いに触れると「大丈夫です。」と言つて、その必要はない旨述べた。

午後九時三五分ころ、転棟による無用の動揺を防ぐという奥村医師の指示で、看護婦によつて神経遮断剤であるセレネースの注射が行われた。同女は、「何の注射ですか。」と問い、看護婦が「よく眠れるお薬です。」と答えると、「ああそうですか。」と言つただけで、表情も変らなかつた。

(七)  七月一五日

午前一〇時ころ、奥村医師は、五階北病棟主任看護婦と翠の転棟時刻につき打ち合せ、午後三時三〇分過ぎに転棟させることとなつた。そこで、同医師は、その旨七階病棟の看護婦に指示するとともに、翠にも説明した。

そのころ、同女は、検温のために訪室した神田看護婦に対し、「入院料はいつ支払うんですか。」と問い、同看護婦が「一五日が締切りだから二〇日過ぎになりますね。」と答えると、「どうしてそんなに遅くなるんですか。」と尋ねたが、同看護婦が説明すると納得した様子であつた。

また、午後二時ころ、同看護婦に「入院料の支払は皆んな二〇日ころですか。本当ですか。」と何度も聞き返し、「早く払つておかないと気になるものですから。」と言つた。

そのころ、折から外来で診療に当つていた奥村医師は、翠の転床すべき病床の患者の退院が遅れている旨の連絡を受けたが、この時点では未だ転棟予定の変更は考えなかつた。

しかるに、午後三時三〇分ころ、右患者が未だ退院していなかつたので、同三時四〇分ころ、奥村医師は、翠の病室を訪れ、同女に対し、退院が遅れているので、転棟は明日に変更になるかもしれない旨を伝えた。この時、同女は、ベツドの上に正座して、荷物を風呂敷包等にして整理して置いていたが、同医師の話には平静に応待した。

午後五時ころ、ようやく右患者が退院したが、看護婦の業務の都合上からもこれ以降の転棟は困難であつたし、同女の状態は直ちに転棟させる必要を感じさせるものではなかつたので、午後六時ころ、同医師は、村田助教授と相談のうえ、転棟を翌一六日午前一〇時に延期することとなつた。

午後六時三〇分ころ、同医師は病室を訪れ、翠に転棟の延期を伝え、話をした。その対話の中で、再び「私の病気は原因があるので直りません。」との発言がみられたが、同医師は、それまでの症状経過、話の状況、同女の態度等からして、この発言は同女の依頼心からのもので、意思の疎通ができている徴表であると判断し、このような虚無的な考えは、その後の精神療法、レクリエーション療法等によつて解消されてゆくであろうと考えた。

なお、この日、翠は朝から何度も自宅に電話を掛けた。朝方応待に出た原告久高に対しては、転棟のことを伝え、「どうしようか。帰りたい。」と訴えた。同原告は、これに対し、「自分は精神科については素人だから、主治医の言うことを聞かなければ仕様がないだろう。」と応えた。また、何度目かの電話には、高校から帰つた原告高子が出たが、その際は、同原告が入院時に持参した歯ブラシが自分のものではないかと訴えた。同原告は、「そんなことがあるわけがない。そんなことを考えないで早く治ることを考えなさい。」と強く言つた。翠は、部屋を移ると言つて、不安がつていた。原告高子は、この時始めて転棟の予定を知つたが、さらに事情を聞くことはしなかつた。さらに、夕方の電話では、原告久高が応待に出ると、転棟につき「きようはやめになつた。」と訴えた。同原告は、「仕様がない。それはそちらの都合だろうから。」と諭した。

午後九時ころ、看護婦が訪室し、前日と同様の趣旨で奥村医師が指示してあつたセレネースの注射を施行しようとしたところ、「薬も飲んだのでいいです。眠れます。」と言つてこれを拒否した。同看護婦は、医師の指示である旨説得して、これを施行した。

午後一〇時以降は、各定期の巡回時に、いずれの際も、睡眠中であつた。

(八)  七月一六日

午前五時までの定期の巡回時には、いずれの際も、睡眠中であつた。

午前六時ころ、看護婦清水あつ子が訪室したところ、覚醒していたが、倦怠感がみられ、活気がなかつた。しかし、同看護婦の挨拶には「おはようございます。」と答え、「眠れましたか。」の問には、「昨日は注射をしたのでよく眠れました。」と答え、異常な点はみられなかつた。

午前七時四〇分ころ、看護婦宇土滋子が給湯のために訪室し、「お茶を入れましようか。」と声を掛けると、「今日は部屋を変りますのでいいです。未だ沢山入つているでしよう。」と応え、タオルケットを畳んでいた。

このころ、松隈は、翠からの電話を受け、同人が訪室した際に病室に置いてきていたボールペンについて、わざわざ「知らないボールペンがある。」と言つてきたので、症状が比較的軽快してきているという印象を持つていたのにと心配した。

午前八時一〇分ころ、看護助手森信子が朝食の配膳に行き、「御飯ですよ。」と声を掛けると、ベッドの上に座つていた翠は、「はい、どうも。」と応じ、何ら異常な点はみられなかつた。(なお、右の朝食について後刻調べたところでは、主食は茶腕に二分の一、味噌汁は汁のみ二分の一摂取してあつたが、この量は、翠の入院中の通常の朝食摂取量と同じであり、従つて朝食としては食べ終つていたものと推認することができる。)

(九)  以上の入院期間を通じて、牛島、奥村両医師を含む福大病院関係者が、原告久高をはじめとする翠の家族に対し、自殺防止の措置の重要なことを説明したことはなく、また、同女の所持品について自殺の用に供される危険のある紐類等を同女の身辺に要かないようによく検討すべく注意を喚起したことはなかつたし、牛島医師ないし奥村医師において、翠の看護にあたつて自殺防止のための充分な配慮をなすべく看護婦らに対して具体的指示をしたことはなく、特に危険な所持品を除去すべく指示をしたこともなかつた。看護婦らにおいても、翠の自殺企図の可能性を前提にしての特別の配慮をしたことはなく、また特に腰紐等を同女の身辺から除去したこともなかつた。

右は、牛島、奥村両医師は、翠には自殺企図のおそれはないと判断し、同女の有している程度の自殺念慮がうつ病患者であるならば極く一般的に有しているものであつて、特にこれに対して自殺防止のために危険物除去の措置に出るのは、かえつて治療関係上の信頼関係を損い、同女に不信感を生じさせる危険があるので、治療目的からみれば逆効果であるとの考えに基づいたためであり、看護婦からの報告を含めて、同医師らの知る限りでは、翠には何ら自殺企図のおそれを窺わせる具体的兆候がその後もなかつたと判断したためであつた。看護婦らも、右期間を通じて、翠に自殺企図のおそれを窺わせる具体的兆候を感じ取らなかつたためである。

なお、右期間を通じて、家族らの同女との接触状況等をみるに、原告久高は、七月九日、同月一〇日ころ、同月一三日、同月一四日と同女を訪ね、また相当回数同女からの電話を受けた。この間、同女は、しきりと「帰りたい。」と言つていたが、同原告は、この間の同女の言動を福大病院の医師あるいは看護婦に伝えたことはなかつた。また、看護婦詰所と七一一号室の距離は約二〇メートルであり、また同原告らが多用したエレベーターはそのほぼ中央に位置していたが、訪室時に看護婦詰所に立ち寄つたこともなかつた。奥村医師との面会は、挨拶のために会おうかと考えた程度で自分達の知つている入院前後の言動、症状等について話しておこうとか、同女の病状、今後の問題等について主治医の話を聞こうという考えはなく、結局同医師には会おうともしなかつた。なお、同女は、同医師から面会の要請を受けていることを同原告に伝えなかつた。原告高子は、七月九日、同月一〇日ころ、同月一四日に翠を訪ね、また前記のように同月一五日に同女からの電話を受け、訪室時には、同女からしきりと「帰りたい。」と言われていたし、病室から油山を見て「景色がいいね。」と言つたのに対し、「そんなものは目に入らない。」と応えられたこともあり、また、七階病棟の看護婦の中に、住いが案浦家に近い者がいることを非常に気にしている様子を示されたが、翠のこれらの言動について福大病院の医師あるいは看護婦らに述べたことはなく、奥村医師に面会したことも、訪室時に看護婦詰所に立ち寄つたこともなかつた。松隈は、七月九日の後、二度程翠を訪ねたが、その際、同女から公務員だから人から陥れられないようによく注意しろという趣旨のことを再三言われ、それでも同女の状態が入院前よりも明るくなつていると感じ、原告久高には訪室時の様子などを話していたにすぎなかつた。

一方、奥村医師は、翠に対して、屡々、原告久高に会うことを求めていたが、同女から「主人は忙しい。」とか「開業しており、一人なので手が離せない。」というような話をされていたため、家族の面会は殆んどないものと考えていた。同医師は、七月一四日に、同女から、前日同原告の面会があつた旨聞いたが、同月一三日が日曜日で同医師の休暇に当つていた。なお、この間、同医師の方から案浦家に直接連絡をとることはなかつた。

(一〇)  事故の発見

掃除婦の川原絹代は、午前八時三〇分ころ、掃除のため七一一号室内の洗面所に立ち入つたところ、翠が倒れているのを発見し、直ちに看護婦詰所に急を知らせた。折から日勤の看護婦らが同所において前日の深夜勤の看護婦である前記宇土、清水から申送りを受け、当日の業務の打合せ等を行つていたが、直ちに七一一号室に駆けつけ、次いで医師らも来て、適切な救急措置がとられた。同女は蘇生したが、同月二四日まで昏睡状態が続いた。

翠は、前記浴衣の紐を輪にして結び、洗面所の洗面台温水栓(床上約七〇センチメートル位)に掛け、右の輪に頸部を差し入れて、洗面台と便器の間の床に坐り込むような恰好で縊死を企図したものである。

以上の事実が認められる。なお、原告本人兼原告清高法定代理人久高、原告高子の供述中には、七月九日牛島医師から付添要請の話はなかつた旨の供述部分があるが、原告久高についてみれば、同原告の供述によると、同原告は、昭和二四年に九州大学付属医科専門学校を卒業したが、当時、精神科疾患、とりわけうつ病については、自殺のおそれがあることと電気ショック療法をしていたことを知つていた程度で、その後開発された向精神剤についての知識は皆無で、牛島医師から留学時の話、イギリスでは電気ショック療法を採用している話をきいたくらいであとは記憶にないというのであるが、右の供述内容及び前記認定のとおり、同原告が同日正午過ころ松隈から連絡を受けた時点から付添いについては不必要だろうという消極的態度であつたこと、並びに前掲乙第六号証、証人牛島定信、同奥村幸夫の各証言及び弁論の全趣旨から窺われる福大病院精神神経科における診療の方針、実情などに照らすと、同原告の右供述部分は、自己の知験に合致した点のみを記憶しているにすぎないものと認められるのであり、同原告の記憶にないことは事実としても存在しなかつたのであろうと推認するわけにはゆかない。また、原告高子についても、牛島医師との面接状況については記憶のあいまいなところもあり、また翠の面接時の立合いにしても従たる立場にあり、同医師と付添いの話について真接対話する立場にはなかつたのであるから、同原告に記憶がないとの一事をもつて、証人牛島定信、同松隈純生の各証言から前記認定のような付添いについての話がなされたと認定することを妨げるものではない。〈証拠判断略〉

五(被告の責任の存否)

1  右認定の事実経過によれば、七月九日当時、翠はうつ病であつたとはいえ、牛島医師の問診に対し、自己の精神症状、生活歴、病前性格、家族歴等について円滑に、かつほぼ正確に応答し、総じて人格水準が保たれていたこと、同医師に対して自ら入院治療を受ける旨の意思表示をし、同日から福大病院において入院治療を受けたと認められる。従つて、右によれば、同日、同女と被告との間に福大病院に入院してうつ病の治療を受ける旨の診療契約が締結されたものと解するのが相当である。

同女が同病院受診前に前記認定のような症状を呈しており、同病院を訪れたのが必ずしもその主体的意思に基づくものでなく、また、入院後、原告久高らに対してしきりと帰りたい旨述べていたとしても、右判断を左右するものではない。

右認定によると、原告ら主張の診療契約とは当事者が異ることになるが、この点の詮索はここでは措き、一応右契約が成立したことを前提として、被告の履行補助者たる医師、看護婦らの原告らの主張するような注意義務違反の有無について検討を進めることとする。

2  そこで、右契約に基づいて翠の診療看護に当つた牛島、奥村両医師及び同女の看護を担当した看護婦らが同女の自殺企図の防止に関してどのような注意義務を負つていたかを先ず検討する。

(一)(自殺企図防止に関する一般的注意義務の存否)

判旨精神的疾患により全体的又は部分的な精神活動の障害を来たした者との間で診療看護契約を締結し、これに基づいて現にその者を入院させたうえ診療看護に当つている医師及び看護婦は、一般にいえば、当該患者の精神的疾患に起因するところの自殺企図に対しては、その防止を図るべき注意義務を負うものと解するのが相当である。自殺については、それ自体極めて不合理な出来事ではあるが、その中には通常人が一応了解可能な理由に基づくものと、通常人には到底理解不能又は困難な理由に基づいて企図されるいわば非合理の自殺とに分けることができよう。近時の精神医学の趨勢、例えば、うつ病概念の拡大からみると、あるいは、自殺を企図するような精神状態は既に何らかの精神的疾患に起因しているとする考え方もありえないではないように見受けられるが、右のような一般的理解を覆えすものではないと考えられる。

ところで、精神的疾患により全体的又は部分的な精神活動の障害を来した者の場合には、その障害の程度に応じ、これを保護すべき地位にある者(例えば、当該疾患に罹患している者と診療看護契約を締結し、現にこれを入院させて診療看護に当つている診療看護者)に自殺の防止を図るべき一般不法行為上の作為義務の生ずる場合のあることは肯認することができるが、前記のような自殺企図という事故の特殊性から考えるとき、当該保護すべき地位にある者に生ずる作為義務は、精神的疾患に起因した非合理の自殺を防止すべき作為義務にほかならず、これを越えるものではないというべきである。

以上の見地から考えるに、翠の本件自殺企図については、当日早朝から看護婦が出入りし、さらに掃除婦が七一一号室に立ち入るまでのいわば一瞬の間隙を縫うかのごとく敢行され、その方法も通常思いもつかぬ極めて無理なものであつたうえ、遺書も残されておらず、その動機が何であつたかは、本件証拠によるも結局明らかでなく、衝動的なものと思われる反面、そうでないとも考えられるが、前記認定事実によれば、同女は当時うつ病に罹患していたのであるから、うつ病患者が自殺を企図した場合には、それが明らかにうつ病に起因するものでないなどの特段の事情のない限り、右自殺企図がうつ病という精神的疾患に起因するものであるか否かを判別するのは困難である一方、自殺企図という意思決定に抑うつ的精神症状が関係していることは少なくないと考えられるから、これらの事実に、前記認定のような同女に罪業妄想や罰せられる、ねらわれているといつた妄想があつたことなどの精神症状の推移、自殺企図の時刻、方法を総合すると、同女の本件自殺企図は、精神的疾患に起因したものであつたと推認するのが相当である。証人奥村幸夫の証言によれば、本件事故発生後の同日午前九時ころ福大病院にかけつけた原告久高が覚悟の自殺ではないかなどと言いながら病室内で遺書の有無を捜していたこと、原告高子本人の供述によれば、原告久高がその後自宅に戻つて金庫を開き何か調べていたことが認められるので、前記認定のとおり翠が案浦家の家計を担当していたことからみると、同原告が一旦自宅に帰つたのは、翠の遺書を探すためであつたとも考える余地があり、これらの事実を勘案すると、同原告は同女の自殺企図がいわゆる覚悟の自殺かと考えていたようにも窺われる節がないわけではないが、仮令そうであつたとしても、前掲各証拠によつても同女の本件自殺企図の動機として合理的に理解することができるものがあつたと考えるに足りる事情を結局見出すことはできないので、右の一事をもつて前記推認を覆えすことはできない。

従つて、牛島医師は七月九日の初診時の担当医師、奥村両医師は同月一〇日以降の主治医として、七階病棟の看護婦らは同女の看護に当つた看護婦として、それぞれ同女の精神活動の障害の程度に応じて同女の自殺企図の防止を図るべき注意義務を負つていたものということができる。

(二)(自殺企図防止に関する注意義務の具体的内容)

判旨さらに、自殺企図防止に関する注意義務の具体的内容を決定するについては、精神科医療の特殊性について充分の考慮をしなければならない。

精神科疾患、とりわけうつ病については、現在でもその原因についての確定的見解はなく、薬物療法等を含めて科学的な診療法が開発応用されつつあるとはいうものの、所詮は人間の身体的臓器的部分における障害ではなく、その人格の深みに根ざしたものであると考えるほかないものであり、またその精神症状の評価判定に際しても、これを機械的、客観的に計測する方法なく、診断者と患者との人間的接触を通じてしか捕捉しえないものであるといわざるをえない。そして、また、その治療についても、前記のような考え方が一般化しているとはいうものの、具体的にどのような治療をなすか、中でも精神療法のごときに至つては、類型的にも様々の手法があるばかりでなく、いずれもそれが治療者の個性なり人格なりによつて、また個々の患者ごとのあり様によつて、各様の姿とならざるをえないものであることもまた否定しうべくもない。そうであつてみれば、そもそも精神科医療は、その本質において、治療者の個性の発揮、人格の発露を容認したところにしか存立しえないものというほかはない。従つて、精神科医に求められるべき良心的裁量の性質とその範囲は、右の精神科医療の特質を充分反映させたものとして定められなければならない。ところで、一般に、過失あるいは注意義務違反とは、段階的にみても、先ず行為における前提事実の認識を誤つたこと、次いで前提事実の認識はあつたのにこれに基づく判断を誤つたこと、さらには、右判断を適切になしながらもこれに対応してなすべき行動を誤つたことであると考えられる。精神科医療の場面においては、精神科医の患者の精神症状についての認識及びこれに対してどのような治療方法をとるべきかの判断の両面にわたつて精神科医療の特質に応じた広範な裁量があるというべきであるから、右裁量に合理性を欠くと認められる場合に始めて過失あるいは注意義務違反があるものと解するのが相当である。

これを本件の自殺防止措置についてみると、うつ病治療の目的は、自殺その他の破壊的行為を予防しつつ、患者の精神症状からくる苦痛を取り去り、可及的速やかに正常な精神状態に回復させ、終局的に社会復帰を実現させることにあるというべきところ、このうち自殺を防止するために絶え間ない監視を続け、用法上自殺の用に供されうるが、それ自体の性質上必ずしも危険物ともいえない着物の帯、紐のような患者にとつて正常時日用必需品ともいえる物を除去し、あるいはこれを徹底して閉鎖病棟さらには保護室への収容等物理的措置をとるだけでは、事故防止に限定した面でそれ相応の効果を期待しうるかもしれないが、その反面治療上屡々有害な影響を及ぼし、治療の終局的目的に背馳する結果を惹起するおそれがあると考えられる。むしろ、精神的疾患に起因する自殺を防止するための最も抜本的な方法は当該疾患自体を治癒させることであるのはいうまでもないことであるから、ここに、閉鎖管理から開放管理へという精神科看護のあり方の歴史的ともいうべき趨勢をも併せ考えるならば、自殺企図の差し迫つたおそれの感じられない患者については、うつ病の治療の終局目的の達成を優先させ、治癒へ向けての可及的合目的的な看護の体制を採用することも合理的な裁量として許容されるところであると解するのが相当である。そして、その具体的な手段方法も、当該治療にあたる医師が当該患者の具体的な精神症状等を総合的に考慮して、精神科医としての良心的裁量に従い判断するほかはないものであつて、右判断が誤つたものであるかどうかは、右裁量が合理性を欠くものであるか否かによつて判定されるものと解するのが相当である。

なお、看護婦については、原則として、当該患者の治療を担当する精神科医の指示のとおりに看護に当り、患者の症状、特にその精神症状を中心として注意深く観察することをもつて、その注意義務を尽したことになるものと解すべきである。

3  以上の見地から、先ず翠が自殺企図の差し迫つたおそれを感じさせる患者であつたかどうか、言い換えれば、同女の精神症状その他の徴候から同女の自殺企図が牛島、奥村両医師にとつて必要とされる程度に予見可能であつたかどうかの点を検討する。

(一) 翠の精神症状の判断の資料として、牛島医師が現に知つていた事情は、前記認定のとおり、原告久高が作成の添書記載の事情及び当日の問診の際に主として翠自身から聴取した前記認定の事情並びにこの間の翠の話振り、態度等から同医師が直接感得した所見程度しかなかつた。翠には、これに先立つて、前記四1のような精神症状及び具体的言動があつたが、同医師は、かかる事柄の有無を原告久高、同高子及び松隈に対して追及することはしなかつた。しかし、それは、前記認定のとおり精神科医療における信頼関係の重視という同医師の理念と情報の確実性に関する同医師の経験とに基づく判断に従つたものであり、前記認定の事実の経過に照らせば、右の判断に合理性を欠くと認められる点はないというべきである。なお、翠の石蔵医院での事情は、同医院の診療録を見れば判明する事実であつたが、同医師は、初診時に同医院受診歴のあることだけは知つていたとはいえ、翠あるいは付き添つてきた松隈や原告高子に問うてみたところで、前記認定事実に照らせば、同医院での事実を客観的なものとして聴取することは不可能であつたと認められるし、また同医院の診療録自体を何らかの手段で取り寄せて検討することが同医師の義務であるとまでは到底いえないから、同医院での事情は、同医師の知りえた事情の中には入らないものというべきである。このほか、証人牛島定信は、七月九日の印象として、原告高子及び同久高の翠に対する態度等から家族関係に問題があるように感じた旨供述するが、右証言の全体からみると、右印象は、回顧的に考えてみるとそのようにも考えられるということにすぎず、七月九日当時としては極めて漠然とした印象であつたとする趣旨であると考えられるから、この点を採り上げて云々することは当をえない。従つて、同医師が知りえた事情は、前記の現に知つていた事情のほかはなかつたものと考えられる。

次に、右の事情から同医師が得た所見は、前記四2(二)のとおりであつたが、この点についても合理性を欠く点は見当らない。さらに、自殺念慮の点については、前記認定のように、同医師と翠との問答以上に質問を続ける必要はなく、同女には自殺念慮はあるが深刻なものではなく、自殺企図のおそれはないと判断したのであるが、同医師の右判断は、それまでの問診等診察の全経過を通じての所見、とりわけ右問答のなされた際における翠の態度等を総合してなされたものであつて、既に述べた精神科医療の特殊性が極めて顕著に現われる場面であるといわなければならない。前記四3(五)の自殺への結実因子あるいはその予徴という観点から同四2の経過を検討しても、翠には明白な自殺への結実因子の存在は認められないし、またその予徴も見出すことができない。してみれば、同医師の右判断に合理性を欠く点があるとは断ずることができない。

(二) 次に、奥村医師についてみるに、前記認定事実によれば、同医師は、前記四1のような具体的な経過を知らなかつたと認められるし、また、同4(二)、(五)ないし(八)及び(九)の事実のうち翠と原告久高らとの間の出来事については、同原告らとの接触がなかつたことから知らなかつたと認められる。証人奥村幸夫は、翠が次第に病院にも慣れ、医師や看護婦に対しても依頼心が生じてきており、治療に適する患者と治療者との信頼関係が形成されつつあつた矢先に本件事故が発生したという趣旨の供述をするが、そのように断言しうるか否かは措き、前記認定のように翠の七月九日夜から同月一〇日朝にかけての不眠、退院帰宅の希求、転棟の計画及びその変更についての受止め方など、同女が福大病院の医師や看護婦らに対するのと家族らに対するのとは、相当に異つた側面を見せていたものとも考えられるところ、仮に同医師が、前記四1の経過や同女と家族らとの間の前記の各出来事を逐一具体的に知つていたとするならば、七月一〇日の同医師の問診の際の同女の前記発言、同月一一日の自閉的とみられた態度、同月一二日午前六時ころの落ち着かない様子、同日午後の発言、同月一四日午前の訴え、同日午後の西園教授の回診の際の発言、同月一五日の神田看護婦との応答、入院料支払についてのこだわり、転棟計画延期を伝えた同医師に対する発言、同日午後九時のセレネース注射の拒否といつた同女の態度は、同医師の理解していたところとは異つた意味のものとして把えられていた可能性を必ずしも否定しきれないかもしれないと考えることができる。

しかしながら、自殺企図との関係で問題があるようにみえる翠の右に指摘した言動については、これを現時点で同女が現実に自殺を企図したという既定の事実から回顧的に考察すれば、自殺企図と関連があるのではないかとも考えられるというにすぎないのであつて、それ自体としては自殺企図の予徴と見ることができないことは、前掲各証拠に照らし明らかである。また、同医師は、前記認定のとおり、同女の抑うつ状態は思つたより軽いという印象を持つており、深刻な自殺念慮はないと判断していたのであつて、この判断は、前記認定事実から見て合理性を欠く点は認められない。このような認識に基づいていた同医師としては、原告久高との面会については、屡々その機会を作ろうとしていたのであるし、これに対する同女の態度に特段の不信なところがあつたという証拠もないうえ、入院後わずか約一週間が前記認定のような状況で顕著な症状の変化もなく経過したにすぎないのであるから、この間に同医師がこれ以上に積極的に事情聴取等のために家族らを直接に呼び出して面接するなどすべきであつたとは到底解しえない。むしろ、そのような行動が治療理念に反するという考えも合理性を欠くものとはいえない。

してみれば、同医師がこれらの事情を知らなかつたことはやむをえなかつたものというべきであり、さらに、自殺企図の可能性を探索すべきであつたともいえない。

(三)  以上によれば、翠には自殺企図の差し迫つたおそれがあつたとは到底いえない。この前提に立つて原告らが注意義務違反として主張する点を考えるに、牛島、奥村両医師が原告久高をはじめとする同女の家族に対し自殺防止の措置の重要なことを説明せず、また同女の所持品について自殺の用に供される危険のある紐類等を同女の身辺に置かないように注意を喚起したことはなく、さらに、翠の看護にあたつて自殺防止のための充分な配慮をなすべく看護婦らに対して具体的指示をしなかつたのは、翠には自殺企図のおそれはなく、同女の有している程度の自殺念慮はうつ病患者であるならば極く一般的に有しているものであつて、特にこれに対して自殺防止のために危険物除去の措置に出ることは、治療関係上の信頼関係を損い、同女に不信感を生じさせる危険があるので、かえつて治療目的からみれば逆効果であるとの考えに基づいたものであり、右の考え方に合理性を欠く点はないというべきである。さらに、看護婦らが、翠の自殺企図の可能性を前提にしての特別の配慮をしたことがなく、また特に腰紐等を同女の身辺から除去しなかつたことについても、この点が注意義務違反といえないこともいうまでもない。

他に同医師らの診療看護の経過中には何ら過誤は認められない。

六以上によれば、原告らの請求は、その余の点について判断するまでもなく、いずれも理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(富田郁郎 川本隆 松本光一郎)

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